1.このサイトは、管理人が作成した資料の中でも、他の講師のみなさんにシェアするために作ったもののみを集めています。自分の受講者に閲覧させるための研修用資料は含まれていません。 2.個人的な資料集にすぎませんので、他の人の著作物を集めることは考えていません。 3.自分の資料や投稿を整理して保存しておき、いつでもどこでも速やかにアクセスできるようにしておくのが第一の目的です。 4.今後も新たな資料を作成した場合はここに投稿していきます。 5.ここに投稿された著作物をコピーしたり、ダウンロードしたりはご遠慮ください。当サイト上での閲覧のみでお願いします。著作権法が規定する範囲内で記事の一部を引用/利用することは自由ですが、引用元としてこのサイト名とリンク先を明示したうえで引用/利用してください。いかなる場合でも、著作者人格権を放棄することは法的にできません。 6.このサイト内の記事を引用/利用した場合の結果について、私は一切の責任を負いません。私が書いた記事は自分の価値観に基づいて自分に合った仕事のやり方と原理原則を述べているだけです。すべての講師の仕事に良い結果を保証するものではありません。 7.アカウントを持たない人にも公開されている記事もあり、それらの閲覧は誰でも自由です。お知り合いにURLを紹介していただいてもかまいません。その一方、アカウントを持ち、ログインしなければ閲覧できない記事もあります。それらは他の人に閲覧させないようにお願いいたします。 8.このサイトのログインアカウント発行は、特定企業に所属している人に対してだけに限られるものではありません。 9.管理人の考えを披露するだけの場所です。みなさんの意見は尊重しますが、「何が正しいのか、どちらが正しいのか」を議論する場所ではありません。 10.管理人以外の人は投稿できません(閲覧権限のみです)。 11.お知り合いの人にもアカウントの発行を希望される場合は管理人までお知らせください。管理人の判断により、決めさせていただきます。 12.このサイトは管理人の個人的活動として運営しています。管理人が経営する法人事業の一部としての活動ではありません。
Daily Archives: 2022年8月5日
以下は、Facebookに2016年2月24日付で投稿した文章の全文です。 講師業を専業とするようになってまるまる5年を過ぎて6年目に入った。 この間、講師以外の仕事は何もしていない。 プログラミング教育の方法論を自分なりに考えるようになり、 まとまった形の文章にしようと思いながらも、 とりあえずすぐにできることとして、 今までの経験で感じたことや学んださまざまなことを「備忘録」として単純な箇条書き形式で書き始めた。 文字通り、自分自身のための備忘録である。他の人に読ませるようなものではない。 何十もの項目が挙がる中で、それらを読み返して新たに気づいたこともある。 以前の投稿では講師として「覚悟を決める」ことの大切さを書いたが、 その覚悟とは単に講師として受講者のためにその時間とエネルギーのすべてを捧げることだけではないことに気づいたのだった。 講師という仕事は基本的に、その仕事のやり方は自分で創意工夫して自分で決めて、自分で実行し、 その結果には自分自身が責任を負う覚悟が必要である。 10人の講師がいれば十人十色で、さまざまなやり方があっていい。 と言うよりも、そうであるべきだ。 僕自身、他の優れた講師から学ぶこともいろいろあるが、 それらをどのように咀嚼して自分の仕事に生かすかはすべて自分自身の責任と思っている。 単純に表面的にマネすれば良いというものではない。 ましてやマネした結果について自分自身の責任を見ようとしないのはトンデモナイことである。 「結果はすべて自分の責任だ」と覚悟を決めることなしに、本当の創意工夫も学びも向上も進歩も決断もないだろう。 この5年間、フリーの講師として、一度でもしくじればその顧客から二度と仕事の依頼は来なくなるという緊張感がつきまとっていた。 実際に、そのようにして消えていった講師を何人も見てきた。生き残った講師のほうが少数派なのだ。 過酷な環境だとは思うが、それでも何とか生き残った自分にあったのは才能などではなく、「覚悟」だけだったような気がする。 ©2016 all rights reserved
以下は、Facebookに2016年2月1日付で投稿した文章の全文です。 講師をやっているといろんな人から感想を言われるが、過去に何回かあったのは、講師をやっている時と普段の布施さんは印象が違うといったたぐいのことである。 「講師をやっている時は声の高さが1オクターブぐらい高くなってる」と言われたこともある。 どうやら講師をやっている時の僕は本当の姿ではなくて、無理して仮面をかぶっていると思われるらしい。 確かに僕の場合は、受講者の前で仕事を始める時には講師モードのスイッチを入れて、心のありかたを切り替える。 しかしそれは、講師の目的を思い出して、その時間はすべて受講者のために捧げる覚悟を決めるためであって、自分以外の誰かになるためではない。それ以外の時間は自分のため、家族のためなど他の目的のために使うから講師モードのスイッチを外す必要があるだけだ。 人間は1日に24時間、1年間に365日を受講者のために捧げることはできない。 受講者の前で仕事をする時には全力でその仕事に立ち向かうだけで、それがニセモノの自分だとは思わない。 やりたいことをやるし、やりたくないことはやらない。無理をしているわけでもない。 普段の自分と同じだが、目的が違うだけなのさ。 そして、どちらもホンモノの自分なのである。 講師が仮面をかぶるだけで受講者がスキルを身につけるはずがないし、結果が出るはずもない。 講師の仕事とはそんなに甘いものではないのであります。 [追記:ついでに言っておくと、講師モードに心を切り替えることはその気になれば誰にでもできるはずです。才能とか能力とかノウハウなど不要ですから。 一度、そのような心の態勢ができたら、目つきも雰囲気も変わってくると思います。] ©2016 布施あづさ
以下は、2021年3月22日付でSlack版に投稿された記事の全文です。 講師として現場で仕事をしている際に、受講者がトンチンカンな質問をしてくることがあります。講義やテキストの内容を正しく理解していないことは明らかなのですが、なぜそのような質問になるのかがこちらにはわかりません。 そんな時に私が可能性として真っ先に疑うのは、その受講者が講義やテキストに現れた単語の意味を誤解しているのではないか、ということです。 その文脈の中に含まれている技術用語を正しく理解しているのかを最初に疑いますが、それだけでは解決しないことがあります。 次に疑うのは、技術用語ではない一般的な単語への誤解です。 単語の定義はひとつだけとは限らず、文脈によっては異なる意味を持つことがありますから、普通の日本語の単語でも自分の知らない定義があることに気づかずに、知っている定義だけでその文脈を解釈するとワケのわからないトンチンカンな解釈になりえます。 明らかに技術用語とわかる単語や全く意味を知らない新しい単語の場合には本人もその意味を調べようと辞書を引いたりしますが、日頃からよく使っている単語の場合には、意味を知っているつもりでもその文脈では異なる定義で使われていることに気づきません。 たったひとつの単語でも文脈に沿った正しい定義で解釈しないと、話の流れとは異なるトンチンカンな理解になってしまいます。 それがトンチンカンな質問を生む原因になることに気づいた経験があります。 自分自身が何かを学習する際にもこまめに辞書などを引いて、たとえありふれた単語でも自分が知らない定義がないかを確認するようにしています。 ©2021 all rights reserved
以下は、2021年3月3日付でSlack版に投稿した記事の全文です。 講師の大切な心がけと思っていることを簡潔に覚えやすいようにまとめようと思って、随分以前のことですが、講師向けに「3つのイ」という言葉を考えました。 その心は、「熱意、誠意、用意」です。 ひとつひとつを説明する必要もないでしょうから省きますが、「権威」、「優位」、「叛意」などが含まれていないことにご留意ください。 ノウハウやスキルの取得よりも遥かに大事だと思っています。 ©2021 all rights reserved
(前回の投稿からの続き) 過去から今までの教育理論をざっと概観してきました。 できる限り客観的に検証可能な情報をわかりやすく提供したつもりですが、ところどころ私見も挟んでしまいました。その部分については無視してもらってもかまいません。 ここから先は100%の私見です。 医学の世界では、人間のあらゆる病気に完全に対応した治療法が確立されているわけではありません。人間の体は複雑ですから。 同様に、教育学の世界でもあらゆる問題に対応する万能の教育理論や教育法がすでに確立されているとは、少なくとも研究者は誰も考えていないはずです。人間の能力や心は複雑ですから。 僕としては、今までのどの教育理論も一方的に批判する意図はまったくなくて、逆にそれらのいずれもが特定の状況のもとではきちんと効果を表してきたということを強調したいと思ってます。 僕は現場で働く講師なので、医学の世界で言えば「研究医」ではなく「臨床医」に該当します。「目の前にいる患者の健康」に何よりも関心があります。 先人が効果があることを示してくれたさまざまな教育手法の中からその時の状況にあった、受講者のためになるベターな手段を使って仕事をしたいと思ってます。 (終わり) ©2016 all rights reserved
(前回の投稿からの続き) 「構成主義」の良いところは、学習者が主体的に考え、観察し、経験するのを重視することですが、「社会的構成主義」も同じ長所を持っています。 違いは、「社会的構成主義」の場合には、学習者がひとりで考えるのではなく、「みんなで考える」ということです。 人間の高度な能力は、社会的な活動の中で発達するという考えが根底にあり、教育においても、他者との交流の中で最もよく発達するという考えです。 したがって、協働学習とかグループワークといった形式で学習を進めていきます。 学習者はお互いの知識や視点や考え方を交換することによって新しい認識を得ることができます。 僕がかかわってきた職業訓練や企業研修のいずれも、カリキュラムの最後は「プロジェクト型演習」で締めくくっていますが、複数の学習者が協働して実技的な演習をするので、社会的構成主義の考えに合致しています。 この学習方法はとても強力で効果も高いと言われていますが、基礎的な知識はすでに身についていることを前提に、さらに高度な能力や応用力を育成する場合にはとても効果的と思われます。 最近では世界的にも普及していて、米国では、構成主義と社会的構成主義の授業だけで単位が取れて卒業できる大学があると聞きました。 とりわけユニークで注目されているのは「反転授業」です。これは、講義を収録したYouTube動画などを事前に自宅で学習させ、教室ではそれをネタにして演習問題やグループワークをやらせるという指導方法です。講義は教室ではなく自宅で聴くというスタイルがこれまでとは反転しているので「反転授業」というわけです。米国の一部の高校や大学で始まっています。 日本を含むアジア諸国では、伝統的に教育者と学習者の関係が「師匠と弟子」のような概念になりやすいので、普及が遅れているという分析もあります。 (次回の投稿に続く) ©2016 all rights reserved
(前回の投稿からの続き) 「認知主義」では、知識は学習者の頭の外側にあって、教育者が伝えて注入するものという考え方です。知識は客観的に存在して測定可能なものと考えます。 「構成主義」では、新しい知識は学習者の頭の中にある既存の認識の枠組みを基に経験や観察によって主体的に構成(構築)するものと考えます。したがって「教わる」のではなく、自ら「発見したり気づいたり」することになります。 教育者の役割は、「教える」のではなく、「学習環境を整えて支援する」ことになります。 知識と理解だけではなく、批判的思考力、分析力、問題解決能力といった高度な能力を養成するのには適していると言われています。 これはとても魅力的な考え方ですが、これ「だけ」だと学習者がどれだけ学ぶのか、その効果はもっぱら学習者のモチベーションや元々の知識と能力のレベルに依存します。 また、学習効果が上がるには時間がかかり、明確な学習目標が設定しづらく評価もしづらいなどの意見があり、短期間で所定の知識と理解と技能を習得する必要のある訓練や研修には取り入れづらいことも指摘されています。 単なる基礎的な知識の理解のためには不効率という批判です。 むしろ、数年間の教育時間を前提にできる大学などの高等教育での利用の方が適しているように思えます。 とはいえ、通常の講義の後に演習問題(「四択」などではない実技的な演習問題です)などを十分に実施すれば自ら経験し観察し発見し気づくことを促す効果があるので、つまり構成主義的な効果があるので、たとえ短期間の訓練や研修でも同様な効果をあげることはある程度まで可能と言えるのではないでしょうか。 言い換えると、通常の講義では認知主義、その後の演習では構成主義に基づいて教育者が役割を変えるハイブリッド方式(僕の造語) です。というか、普通に誰でもやってることなんですが・・・。^^; この「構成主義」をさらに発展させた最新の理論が「社会的構成主義」です。 (次回の投稿に続く) ©2016 all rights reserved
(前回の投稿からの続き) アメとムチ「だけ」の教育は、学習者が主体的な情報処理を行なったうえで行動するように意図されてはいません。 「認知主義」の考え方は、教育する側が学習者に情報やデータを伝え(教え)、学習者がそれを理解し長期的に記憶すれば、人間は知識に基づいて判断するので、物事に対する認識は変わるはずだという考え方です。 いわゆる「座学」で、教育する者が学習者に講義をして知識を伝達するスタイルの教育は、これに当てはまるでしょう。 僕が子供の頃の学校教育はこの理論を基にしていたような気がします。 この理論の場合、教えようとする内容(つまりテキストとかコンテンツ)の質と量が重要になってくるはずです。もちろん教える側の教え方のスキルや説明の分りやすさも大事ですが。 しかし、この種の教育「だけ」を極端に押し進めると、「詰め込み教育」になってしまいます。 「詰め込み教育」の問題は、人間が一日に咀嚼して理解できる情報の量には限界があり、大量の情報をいっぺんに詰め込まれると消化不良を起こして、眠くなったり、疎外感を味わったり、次の段階へ進むことができなくなってしまうことです。いわゆる「落ちこぼれ」が出やすくなります。 また、主体的に考える力や創造力を育むことに貢献しないという批判もあります。本当にそうなのかはわかりません。 創造力の基盤として基礎的な知識や学力は必須のはずですから、「詰め込み」にならない程度の知識の伝授は必要でしょう。 何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、やり過ぎれば弊害が出ても不思議ではありません。 ともあれ、日本でも「詰め込み教育」の弊害が言われるようになり、その反動で逆方向の「ゆとり教育」というのが出てきました。 「認知主義」とは異なる「構成主義」の考え方も現れました。 (次回へ続く) ©2016 all rights reserved
2016年10月15日からFacebookに投稿した「学習理論の変遷」に関わる一連の投稿記事を「その1」から「その5」としてそのまま転載します。 以下、転載記事。 8月から取り組んでいた仕事がすべて終わったので時間に余裕ができた。そこで、在籍中の大学院の科目で学んだ教育関連のテーマのうち、もしかしたら「友達」の皆さんも関心があるかもしれないことについて自由に書いてみる気になった。長文になってしまうので何回かに分けて投稿するつもりです。 今回は、過去から現在までの教育理論と学習理論の変遷についてです。 そもそも教育とはどうあるべきか、学習とは何かについてさまざまな研究者が理論を構築してきたのですが、過去の大きな流れと変遷だけを俯瞰してみると、以下のような感じになるはずです。 行動主義から認知主義へ 認知主義から構成主義へ 構成主義から社会的構成主義へ 言葉だけ見ると難しそうですが、実はそれほどでもありません。 行動主義の考え方は、わかりやすく言えば「アメとムチ」です。 アメとムチを駆使することによって学習者の行動パターンを教育する側が望ましいと考える方向に変えること。 特定の刺激に対して、それに応じた反応をするように強化策(アメとムチ)を即座に施して繰り返し訓練します。 この場合の「アメ」とは「肯定的なフィードバック」、「ムチ」とは「否定的なフィードバック」のシンボルとも考えられます。 これは第二次世界大戦中の米国で、軍隊の兵士たちをいかに効率的に短期間で訓練するかが重要なテーマだった時期には大いに活用されたようです。 もちろん、アメとムチの考え方そのものは大昔からあったはずですが、それを教育理論としてまとめて「行動主義」という名前をつけ たわけです。 この考え方は今でもあちこちで応用されているはずです。 特定の状況では確かに効果があることが認められているからでしょう。 たとえば、きちんと特定の仕事を完了しなかったら報酬金額を減額し、良い仕事ぶりには報酬金額を増額するようなシステムに大きな効果が見られる場合はよくあります。 しかし、アメとムチ「だけ」で教育したら弊害が出てきてしまいます。 そこで、認知主義という別の理論が現れました。 (次回に続く) ©2016 all rights reserved
以下は、2021年10月13日付でSlack版に投稿した記事の全文です。 「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」 一休禅師 「同じ高嶺」を目指すにしても、さまざまな登山道があり得るわけで、「オレが正しい」と声高に主張したくはない根本的な理由がこれです。 私は私のやり方で、手探りしながら山道を進んではいますが、他にもより良い道があるかもしれない。その可能性まで否定したくはありません。 しかし、山に登ったことのない人や自分のとは違う道のことも知りたい人の参考にしてもらうことはできるかもしれない。 このサイトがそんなスペースになれればいいと思います。 ©2021 all rights reserved