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(前回の投稿からの続き) アメとムチ「だけ」の教育は、学習者が主体的な情報処理を行なったうえで行動するように意図されてはいません。 「認知主義」の考え方は、教育する側が学習者に情報やデータを伝え(教え)、学習者がそれを理解し長期的に記憶すれば、人間は知識に基づいて判断するので、物事に対する認識は変わるはずだという考え方です。 いわゆる「座学」で、教育する者が学習者に講義をして知識を伝達するスタイルの教育は、これに当てはまるでしょう。 僕が子供の頃の学校教育はこの理論を基にしていたような気がします。 この理論の場合、教えようとする内容(つまりテキストとかコンテンツ)の質と量が重要になってくるはずです。もちろん教える側の教え方のスキルや説明の分りやすさも大事ですが。 しかし、この種の教育「だけ」を極端に押し進めると、「詰め込み教育」になってしまいます。 「詰め込み教育」の問題は、人間が一日に咀嚼して理解できる情報の量には限界があり、大量の情報をいっぺんに詰め込まれると消化不良を起こして、眠くなったり、疎外感を味わったり、次の段階へ進むことができなくなってしまうことです。いわゆる「落ちこぼれ」が出やすくなります。 また、主体的に考える力や創造力を育むことに貢献しないという批判もあります。本当にそうなのかはわかりません。 創造力の基盤として基礎的な知識や学力は必須のはずですから、「詰め込み」にならない程度の知識の伝授は必要でしょう。 何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、やり過ぎれば弊害が出ても不思議ではありません。 ともあれ、日本でも「詰め込み教育」の弊害が言われるようになり、その反動で逆方向の「ゆとり教育」というのが出てきました。 「認知主義」とは異なる「構成主義」の考え方も現れました。 (次回へ続く) ©2016 all rights reserved
以下は、Facebookに2016年2月1日付で投稿した文章の全文です。 講師をやっているといろんな人から感想を言われるが、過去に何回かあったのは、講師をやっている時と普段の布施さんは印象が違うといったたぐいのことである。 「講師をやっている時は声の高さが1オクターブぐらい高くなってる」と言われたこともある。 どうやら講師をやっている時の僕は本当の姿ではなくて、無理して仮面をかぶっていると思われるらしい。 確かに僕の場合は、受講者の前で仕事を始める時には講師モードのスイッチを入れて、心のありかたを切り替える。 しかしそれは、講師の目的を思い出して、その時間はすべて受講者のために捧げる覚悟を決めるためであって、自分以外の誰かになるためではない。それ以外の時間は自分のため、家族のためなど他の目的のために使うから講師モードのスイッチを外す必要があるだけだ。 人間は1日に24時間、1年間に365日を受講者のために捧げることはできない。 受講者の前で仕事をする時には全力でその仕事に立ち向かうだけで、それがニセモノの自分だとは思わない。 やりたいことをやるし、やりたくないことはやらない。無理をしているわけでもない。 普段の自分と同じだが、目的が違うだけなのさ。 そして、どちらもホンモノの自分なのである。 講師が仮面をかぶるだけで受講者がスキルを身につけるはずがないし、結果が出るはずもない。 講師の仕事とはそんなに甘いものではないのであります。 [追記:ついでに言っておくと、講師モードに心を切り替えることはその気になれば誰にでもできるはずです。才能とか能力とかノウハウなど不要ですから。 一度、そのような心の態勢ができたら、目つきも雰囲気も変わってくると思います。] ©2016 布施あづさ
以下は、2021年3月22日付でSlack版に投稿された記事の全文です。 講師として現場で仕事をしている際に、受講者がトンチンカンな質問をしてくることがあります。講義やテキストの内容を正しく理解していないことは明らかなのですが、なぜそのような質問になるのかがこちらにはわかりません。 そんな時に私が可能性として真っ先に疑うのは、その受講者が講義やテキストに現れた単語の意味を誤解しているのではないか、ということです。 その文脈の中に含まれている技術用語を正しく理解しているのかを最初に疑いますが、それだけでは解決しないことがあります。 次に疑うのは、技術用語ではない一般的な単語への誤解です。 単語の定義はひとつだけとは限らず、文脈によっては異なる意味を持つことがありますから、普通の日本語の単語でも自分の知らない定義があることに気づかずに、知っている定義だけでその文脈を解釈するとワケのわからないトンチンカンな解釈になりえます。 明らかに技術用語とわかる単語や全く意味を知らない新しい単語の場合には本人もその意味を調べようと辞書を引いたりしますが、日頃からよく使っている単語の場合には、意味を知っているつもりでもその文脈では異なる定義で使われていることに気づきません。 たったひとつの単語でも文脈に沿った正しい定義で解釈しないと、話の流れとは異なるトンチンカンな理解になってしまいます。 それがトンチンカンな質問を生む原因になることに気づいた経験があります。 自分自身が何かを学習する際にもこまめに辞書などを引いて、たとえありふれた単語でも自分が知らない定義がないかを確認するようにしています。 ©2021 all rights reserved
(前回の投稿からの続き) 「認知主義」では、知識は学習者の頭の外側にあって、教育者が伝えて注入するものという考え方です。知識は客観的に存在して測定可能なものと考えます。 「構成主義」では、新しい知識は学習者の頭の中にある既存の認識の枠組みを基に経験や観察によって主体的に構成(構築)するものと考えます。したがって「教わる」のではなく、自ら「発見したり気づいたり」することになります。 教育者の役割は、「教える」のではなく、「学習環境を整えて支援する」ことになります。 知識と理解だけではなく、批判的思考力、分析力、問題解決能力といった高度な能力を養成するのには適していると言われています。 これはとても魅力的な考え方ですが、これ「だけ」だと学習者がどれだけ学ぶのか、その効果はもっぱら学習者のモチベーションや元々の知識と能力のレベルに依存します。 また、学習効果が上がるには時間がかかり、明確な学習目標が設定しづらく評価もしづらいなどの意見があり、短期間で所定の知識と理解と技能を習得する必要のある訓練や研修には取り入れづらいことも指摘されています。 単なる基礎的な知識の理解のためには不効率という批判です。 むしろ、数年間の教育時間を前提にできる大学などの高等教育での利用の方が適しているように思えます。 とはいえ、通常の講義の後に演習問題(「四択」などではない実技的な演習問題です)などを十分に実施すれば自ら経験し観察し発見し気づくことを促す効果があるので、つまり構成主義的な効果があるので、たとえ短期間の訓練や研修でも同様な効果をあげることはある程度まで可能と言えるのではないでしょうか。 言い換えると、通常の講義では認知主義、その後の演習では構成主義に基づいて教育者が役割を変えるハイブリッド方式(僕の造語) です。というか、普通に誰でもやってることなんですが・・・。^^; この「構成主義」をさらに発展させた最新の理論が「社会的構成主義」です。 (次回の投稿に続く) ©2016 all rights reserved