(前回の投稿からの続き) アメとムチ「だけ」の教育は、学習者が主体的な情報処理を行なったうえで行動するように意図されてはいません。 「認知主義」の考え方は、教育する側が学習者に情報やデータを伝え(教え)、学習者がそれを理解し長期的に記憶すれば、人間は知識に基づいて判断するので、物事に対する認識は変わるはずだという考え方です。 いわゆる「座学」で、教育する者が学習者に講義をして知識を伝達するスタイルの教育は、これに当てはまるでしょう。 僕が子供の頃の学校教育はこの理論を基にしていたような気がします。 この理論の場合、教えようとする内容(つまりテキストとかコンテンツ)の質と量が重要になってくるはずです。もちろん教える側の教え方のスキルや説明の分りやすさも大事ですが。 しかし、この種の教育「だけ」を極端に押し進めると、「詰め込み教育」になってしまいます。 「詰め込み教育」の問題は、人間が一日に咀嚼して理解できる情報の量には限界があり、大量の情報をいっぺんに詰め込まれると消化不良を起こして、眠くなったり、疎外感を味わったり、次の段階へ進むことができなくなってしまうことです。いわゆる「落ちこぼれ」が出やすくなります。 また、主体的に考える力や創造力を育むことに貢献しないという批判もあります。本当にそうなのかはわかりません。 創造力の基盤として基礎的な知識や学力は必須のはずですから、「詰め込み」にならない程度の知識の伝授は必要でしょう。 何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、やり過ぎれば弊害が出ても不思議ではありません。 ともあれ、日本でも「詰め込み教育」の弊害が言われるようになり、その反動で逆方向の「ゆとり教育」というのが出てきました。 「認知主義」とは異なる「構成主義」の考え方も現れました。 (次回へ続く) ©2016 all rights reserved
認知主義
2016年10月15日からFacebookに投稿した「学習理論の変遷」に関わる一連の投稿記事を「その1」から「その5」としてそのまま転載します。 以下、転載記事。 8月から取り組んでいた仕事がすべて終わったので時間に余裕ができた。そこで、在籍中の大学院の科目で学んだ教育関連のテーマのうち、もしかしたら「友達」の皆さんも関心があるかもしれないことについて自由に書いてみる気になった。長文になってしまうので何回かに分けて投稿するつもりです。 今回は、過去から現在までの教育理論と学習理論の変遷についてです。 そもそも教育とはどうあるべきか、学習とは何かについてさまざまな研究者が理論を構築してきたのですが、過去の大きな流れと変遷だけを俯瞰してみると、以下のような感じになるはずです。 行動主義から認知主義へ 認知主義から構成主義へ 構成主義から社会的構成主義へ 言葉だけ見ると難しそうですが、実はそれほどでもありません。 行動主義の考え方は、わかりやすく言えば「アメとムチ」です。 アメとムチを駆使することによって学習者の行動パターンを教育する側が望ましいと考える方向に変えること。 特定の刺激に対して、それに応じた反応をするように強化策(アメとムチ)を即座に施して繰り返し訓練します。 この場合の「アメ」とは「肯定的なフィードバック」、「ムチ」とは「否定的なフィードバック」のシンボルとも考えられます。 これは第二次世界大戦中の米国で、軍隊の兵士たちをいかに効率的に短期間で訓練するかが重要なテーマだった時期には大いに活用されたようです。 もちろん、アメとムチの考え方そのものは大昔からあったはずですが、それを教育理論としてまとめて「行動主義」という名前をつけ たわけです。 この考え方は今でもあちこちで応用されているはずです。 特定の状況では確かに効果があることが認められているからでしょう。 たとえば、きちんと特定の仕事を完了しなかったら報酬金額を減額し、良い仕事ぶりには報酬金額を増額するようなシステムに大きな効果が見られる場合はよくあります。 しかし、アメとムチ「だけ」で教育したら弊害が出てきてしまいます。 そこで、認知主義という別の理論が現れました。 (次回に続く) ©2016 all rights reserved